屋久島に行ってきました                     12月24日


昨日まで屋久島へ行ってきました。次回個展のために、あと来月と再来月の計3回行くことになります。今年の頭にもらったコンテストの賞金を使って、暗闇の写真を撮りに行っていたんです。最後に屋久島へ行ったのはほぼ2年前で、今回も夜の間に車で移動しながら撮影をしていたんですが、2年前には気に入って撮影していた場所が全然面白くなくなっていたり、大地震でも起こって地形が変わるように、「あれっ、そもそもこんな風景じゃなかった……」と疑ったりすることばかりでした。だから、以前はうまくいった所が、今回はそうでないことが多かったので、結果としてはほとんど撮れませんでした。けれど、それが僕にはなんだかヒントのように感じられました。2年振りに同じ場所に立っているわけだけれど、僕は過去の自分が見て、何かを感じて写真に撮ったものを記憶として持っている。けれど、現在の僕がその同じ風景を見ても何も感じないことが多かった。常に2年前の自分の目線の記憶(それはすでに撮られた写真の目線と同じになっているけれど)と比較をしながら撮影をしていたんだけれど、もう全然違っていて、それに驚きっぱなしだったんです。僕はこの2年の間でちゃんと更新されていたんですね。良かった。
だから、そういった意味で今回は全然写真が撮れなかったけれど、同時に2年前とは違う、新しい方向があるんだと分かったので、費用対(潜在的)効果が成り立たったと安心しました。


ところで、僕は屋久島に行くたびにお世話になる人がいて、その人と一緒に夜の海中温泉へ行きました。その時に翌日の予定を聞いてみると、
「幼稚園でサンタさんになるんだよね。子供たちにクリスマスプレゼントをあげるんだ」
なんていうので、
「 良いなー、うらやましいなー」と答えたら、
「やる?トナカイならできるよ」と言われたので、
「やります!やりたいです!!」
「良いよ、子供が好きなんだね」
「いえいえ、ただの変身願望ですよ」
と、トナカイの着ぐるみを着て、子供たちの前で踊りました。普段の僕は子供との接し方がよく分かりません。でもトナカイになれば、それは僕ではなくなるので、何でもできました。「着ぐるみを着た関西人」を見事に体現できましたね。



  バーネットニューマンを学ぶ                    12月8日

先日、川村記念美術館にバーネットニューマン展を観に行きました。ここに行くのはゲルハルトリヒター展以来の4年振りでしたが、何せ都心から遠いので簡単に来ることはできず(といっても、忙しく毎日を過ごしているわけでもないんですが、気が向きにくいということです)、旅行気分になりますね。帰り道には強風のせいで電車が動かず、しかもラッシュの時間と重なってしまい、大変な思いをしました。僕はラッシュ時の電車に乗るたびに、乗客全員が性格の悪い人に見えてしまいます。電車から降りる時にも、誰も「すいません」とか「降りますー」と声を掛けることもせずに、ただ目の前の人を押し分けるだけなんて、常識的にかなり失礼だと僕は思うんですが(常識とか、失礼なんていう概念がかなり希薄な僕から見ても)、毎日ラッシュを経験していると、そういったことも面倒になっていくのでしょうか?あるいは、そういうことを暗黙の了解的に許される場として成立してしまっている?それもどうかと思うけれど……。ラッシュの電車というだけでこんな状態なんだったら、関東大震災が再び起こった日には一体どうなってしまうんでしょうか?

佐倉の駅から、送迎バスに揺られて20分。僕は抽象表現主義絵画を美術館の常設展で見たことは何度もあったんだけれど、具象や抽象が入り混じったような場だと、やはり具象の持っている物語的な要素が比較的簡単に理解しやすかったり、感情移入しやすくて、しかも作品それぞれを隣りの作品から独立させて鑑賞するといったことが難しいので、一見して素通りすることがほとんどでした。なので今回は個展形式として初めて抽象表現主義絵画だけを意識的に経験してきたわけですが、今まで持っていたドクサをようやく改めることができたと感じました。それはよく言われているような、ユダヤ教の偶像崇拝禁止だったり、神智学という神秘主義の背景を加味して理解できることなんだけれど、極東のマイノリティである僕がバーネットニューマンの作品を見て、そうした西洋の論理による理解を身体的経験として実感できる、なんてことを全く予想していなかったので、少し驚きました。僕は、抽象表現主義は頭でしか見れないと思い込んでいたのですね。本の中でカタログとして載っている小さな写真を見ているだけでは分からないわけです。その点で、個人的にとても良い展覧会でした。


話は少しずれて、最近読んだ本に、「西洋社会は宗教という社会の中で最も権威ある秩序を捨てることによって近代へと突入したわけですが、社会を秩序づけていた神がいなくなれば、当然社会の安定が危ぶまれる。だから社会の安定を得るために、西洋社会はいわば神の代理物としての「ある方向」を設定して、突き進まなければいけない。そして、そこへ向かっていく限りにおいて、社会は束の間の安定を得ることができる」、というようなことが書いてありましたが、そうした「神の代理物」は同じように、近代以降の西洋芸術においても求められて来たのではないでしょうか(ユダヤ人であるニューマンが、神の代理物として絵画を作ったとは言い切れないけれど、作品はそれを求めているようにしか感じられない)。そして、それが呪いのように機能して今もなお続いている。

一方で日本はといえば、宗教(仏教や神道)が社会の秩序を保っていたわけではなかったように思います。むしろ西洋人が日本にやって来た時に、日本文化を「野蛮だ!」と呼んだ点において、つまり西洋社会からは、日本には秩序なんて無いように見えたのでしょう。例えば、大衆浴場は男女混浴で裸だし、「子供は村の子」という言い方があるように、自分の子供が誰との間にできたのか分からないから、村の子供として扱う、なんてこともあったわけですよね。そしてそれが西洋人には秩序のない、カオスのように映った。けれど日本人の伝統的な価値観はむしろ、カオスの中に美を見出すものであり、それは現在も僕らの中にある。

ですから、それぞれの文脈で話せば、芸術のあるべき姿すら同じはずがない。西洋の場合は進歩主義思想によって、「芸術とは最先端である」という命題を初めから与えられているけれど、日本の場合は、そもそも進歩主義の概念が伝統的に存在しないし、「芸術」が西洋から輸入された明治期以降、変わる必要性がないんですね。極端に言えば、「芸術は印象派である」で止まっても良い。それはそれで問題だとは思うんだけれど、僕らはそうした世界の端にいるからこそ、呪われた西洋社会に対して、「そもそも実は、呪いになんてかかってなかったりして……」と言えるのであって、それが出来ればものすごく面白いなあ、と考えているのですが……。

  記憶がございません                      11月23 日

昨晩、友達とお酒を飲みに行き、帰宅したのが朝6時頃(記憶は完璧にあります。そして本当は終電で帰りたかった)、10時にAmazonの宅急便で起こされました。家の窓から外を見たらすごく天気が良いのに気付いたので、外に出てみると、太陽の光が夏みたいに眩しいんだけれど、そこに熱はなく、空の青色が一昨日よりずっと濃くなっていました。僕は季節の移り変わりを青空の色で判断するので、どうやら今日が冬の始まりのように感じ、いつも冬になる度に「あれ、冬ってこんなんだったっけ?」と思います。そして、夏が来る度に「あれ、夏ってこんなんだったっけ?」と思う。

20日から昨日までの3日間、伊豆半島を車で1周してきました。小田原、熱海、伊東、下田、松崎、修善寺という具合に。この2年間続けている「うばたま」の撮影のためですが、撮影は夜だけするので、昼間は単なる観光旅行ができます。そして、こうした旅行をするのが去年の夏以来、ほぼ1年振りだったので、車を走らせながら車内に新鮮な空気を入れるようにして、僕自身もずいぶん気分転換ができたように感じました。けれど、計らずも頭の中の記憶がずいぶんと整理されたようで、東京に戻って来てから、伊豆に行く前の日常を思い出そうとしても、何も出てこないことに気付きました。この1ヶ月で何をしていたのか、全然思い出せません。僕はそんなにどうでもいい事ばかりしているのでしょうか?もともと記憶という能力が人一倍欠けている(いや、そもそも憶えることを半ば放棄しているんじゃないか、という疑念)のは知っていました。旅行をすることで自分をリフレッシュするとはよく言いますが、どうやらし過ぎてしまったみたいです。

  映画『ノルウェイの森』                      10月24日

一昨日、映画『ノルウェイの森』の試写会に行ってきました。

よくあるように、面白いと思った原作がいったん映画化されると、大抵は面白くなくなるし、だいたい今作られている日本映画の8割を、僕は見る前から興味を持てないので、あまり期待してはいけないのか不安だったと同時に、監督がトラン・アン・ユンであることが唯一、期待できるファクターでした。彼の『青いパパイヤの香り』と『夏至』は以前(たしか5年前くらい)に見ていて、ストーリーは憶えていないんだけれど、ベトナム人の女性たちが、その綺麗な黒くて長い髪を洗うシーンがあって、その映像の美しさに心惹かれたのをよく憶えていました。

映画について言えば、僕が原作の中で体験した時間の速度よりもいくぶん早い感じがしたけれど、それを差し引いても、とても良く出来ている作品だと思いました。公開前だろうから具体的な内容は言わないけれど、印象的なシーンがいくつかあったし、役者もよくハマっていました。物語の映像化に関しても、主人公のワタナベは、いわば緑の属する世界と、直子の属する世界に挟まれていて、緑の世界は日常という現実、直子の世界は日常を超えた一つのユートピア、あるいは精神世界のメタファーであって、それらの世界の映像表現における対比がとても印象的でした。パンフレットを読むと、そのユートピアはなんと兵庫県にあるそうで、同じく兵庫県出身の僕は是非いつか行ってみようと決めました。主題歌がビートルズの "Norwegian Wood" で、それがなんだかサンドイッチの中のカマンベールチーズのように、映画における1970年あたりの時代の匂いを素敵に表しているように感じました。

 

アニメを見ています                        10月18日


ブログを書こう!書かないとダメだ!でも何を書こうか?と思い続けて、1ヶ月以上が過ぎました。そうすると、自分の事を人に話したい、という欲求が僕には元々あんまりなかったことを思い出しました。時々、質問してもいないのに延々と話し続ける人がいたりしますが、どうしてそんなことができるのか、本当に僕には信じられません(悪い意味では全然なくて、ただ理解できないだけです)。もしも自分の存在が安定していると感じていれば、他人に対してそんなに興味を持つ事もない。だから自分の事を知って欲しいとは思わないし、そもそも自分のことを話せるほどの内容を僕は持ち合わせていない、というのが10年以上前からの認識です。
けれど、それじゃあ、なんでブログをやるんだ、という事になり、計らずも僕はブログを書くのに向いていないと言っているようなものなんですが、それとは関係なく、こうした自己主張は必要なわけですね。

最近、あまり自分の作品制作について考えることは少なくて、むしろ作品制作のヒントになるかもしれないものを探しています。僕の場合、基本的にはそれが本の中にあることが多いんですが、3週間前ほどからアニメを見始めることにしました。これまでも映画版のアニメはよく見ていたのですが、テレビシリーズを見た事が全くなくて、名の知れたものを片っ端から見ることにしたのです。そして、この3週間でおそらく10作品ほど、つまり30分番組で250話ほど見ました(決して暇なのではありません)。僕自身はオタクではないので、これまでオタクの人同士の会話が全く理解できなかった。つまり、オタクには独自の思考パターンというか、情報処理の仕方みたいなものがあるんじゃないか、だから、そのソフトを持っていない僕との互換性がない。じゃあ、僕もそのソフトを手に入れたい、と思ったんですね。そして、もしかしたらそのソフトがものすごく役に立つのかも知れない。少なくとも世界的なオタク人口はこのまま増えていくでしょうし、インターネットで情報を集めるような現在、よく言われるような、頭で情報をデータベース化して理解する仕方を僕たちは身につけていくんだろうけれど、それってオタクがずっとやってきたことなのかな、と何となく思っています。オタクに学ぶことは多いのかも知れないですね。

 

カメラを買いました                          9月7日


最近、4x5インチの大判カメラを買いました。これまでは、機動性とか現実的な撮影の事情で、大きくても中判カメラまでしか使えない作品を作ってきましたが、これから必要になるだろうと思って買ったわけです。というか、写真学校とか美術大学を出ていると、みんな大判カメラを使う授業とかを受けるだろうから、持っている人が多いと思うんだけれど、僕はそういった教育を受けていないし、撮影スタジオで働いたこともないし(面接で全部落ちた)、だから他の人が踏んでいるはずの手順を時々すっとばしているのに気付かされます。いまこうして、29歳にして4x5カメラを買って、ようやく使い方が分かった。
けれど僕の普段の仕事は雑誌とか広告のための写真撮影で、そのために4x5カメラを使うことはあんまりない気がします。というのも僕の仕事はポートレイトがほとんどで、いつも撮影時間が限られているから、だいたいはデジカメか、もしくは中判カメラでやるのが今のところは現実的なんですね。もしも4x5カメラの扱いがものすごーくうまくなったら、話は別だけど。今は想像しにくいですね。

今日は午後から小説家の江國香織さんの撮影に行ってきます。僕には小説家の友達が何人かいて、よく彼らと遊んでいる(酒を飲んでいる)んですが、その結果、彼らを通して編集者と知り合うこともあって、最近では小説家の写真を撮ることが多くなってきました。今日もそういう都合で知り合った編集者との仕事です。僕にとって小説家っていう職業の人たちは一番変わった人種だと思っていて、正直に言って、みんな変です。そうはいっても、世間の人が抱いているイメージからそんなに離れていないはずで、彼らはみんなと同じように、それぞれの立ち位置から物事を真面目に考えるんだけれど、その立ち位置と眺め方がやっぱりどこか奇妙なんですね。そこにかかっているフィルターが(一般的に言って)おかしい。オタクというフィルターだったり、恋愛の鬼というフィルターだったり、コテコテの関西文化だったり、あるいは理解不能なフィルターが。もちろん誰だって、そんなフィルターを持っているはずだけど、彼らはそれに対して自覚的で、そのフィルターの掛け方が半端ない。だからこそ小説家という仕事ができるわけで、一緒にいて楽しいんですね。でも、そういえば最近会ってないなあ。

 

ブログを書くことにしました。                     9月5日


せっかく自分のwebもあることだし、ブログを書いてみることにします。

僕は文章を書くことにあまり慣れていないので、それには普段からものすごく時間がかかります。何も考えずに無意識で指が動いていくなんてことは、まずあり得ません。だから、そんなにしょっちゅうはできないかと思うんだけど、日常の暮らしのこととか、今日一日いったい何を考えてたのかとか、あるいは何も考えていなかったとか(そういう時はたぶん書かないと思うけど)、僕自身の自己紹介みたいなことも含めてやっていこうかと決めました。まあ、一体誰が見てくれるだろうかなんて、今は想像せずに、目をぎゅっと閉じて、何年後かにパチリと開けてみると、ピエロがたくさん踊ってた、なんていうことになればいいなと期待して。

ちなみに読んでもらっても、感想を書いてもらうスペースという粋なものはないので、「contact」ページのアドレス宛てにメールなんて送ってもらっても構いません。もしも面白い話があれば、ここに引用して対話できるからそれはとても楽しいなと思います。

では、どうぞよろしくお願いいたします。

隼田大輔