被災地の写真作品                        10月9日

先日、東京フォトという写真のアートイベントが六本木であったので行ってきました。僕がそれに興味を持ったのは、東日本大震災のチャリティとして、写真家が被災地の写真を撮った作品が展示販売されているからでした。
というのも、震災以降の5月と7月、8月に、僕も津波の被災地を訪れて写真を撮っていました。以前にも書いたように、僕は震災の翌日からフランスのテレビ局の取材のコンダクターとして被災地へ行っていたんですが、その後東京に戻ってきて、ではその経験を無視して日常に戻るという気にはとてもなれませんでした。僕には震災という何か得体の知れないものに立ち会い、そして関わったという感触があった。それに、そもそも初めに僕が被災地に行きたいと願ったのは、14歳の時に経験した阪神大震災を自分が消化するためのきっかけをもしかしたら見つけることができるんじゃないかと思ったからなんですが、それとは別に被災地を訪れた時にその光景にある種の重さを感じ、それが被災地を離れても僕にのしかかったままでした。そうした2つの事柄によって、僕は被災地と震災後も関わることが必要なことのように思え、写真を撮ることに決めました。

ただ、そこで僕個人が突き当たった問題は、そうして被災地の写真を撮るのは良いけれど、その撮った写真をどうするのかということでした。たとえ被災地の写真を撮っても、それを自分の作品として発表していいのか?といったことです。被災地のような特別な状況を写真に撮れば、それは当然誰にでも特別な写真に見えますよね。果たしてそれを表現と呼んでもいいのか。もしくは、その状況を自分の表現の型に落とし込むようにして、ある種利用することは道徳的に許されるのか。そして、そうした発表行為はチャリティーという名目があれば解決できてしまうことなのか……。こうしたことは僕の中では全く解決されていませんが、それを考えていたところにちょうど東京フォトというイベントがあったのでした。

8月に被災地に行った時、僕は被災にあった方たちのポートレイトをいくつか撮影させてもらったんですが、その中には、「津波後、デジカメで被災の状況を写真に撮ったりしたけど、やっぱり見たくないから全部消去した」というような人もいたわけです。そういった話を聞くと、被災の経験が目の前の現実問題としてではなく、人の記憶として残り始めるときまで、僕は少なくとも発表することはできないという気持ちになりました。被災の風景が目の前から失われた時、記録としての写真は彼らにとって今の状況で見る写真とは違った意味を持ち始めるからです。その時には、僕たちの写真は被災された人たちの役に立つ写真として存在できると思っています。

  そして、3.11から2ヶ月半後に思うこと              6月1日

地震がおきて2ヶ月半がたちましたが、こんなに大きな問題ですら、僕たちは当初の緊張感をものすごい早さで失って、日常へと還してしまっていることに気付かされざるをえません。僕は先日、地震と津波による死者の数をこの2ヶ月間で1度も思い出さなかったことに気付いて、自分で愕然としました。地震以降、こうしたことを何度も繰り返しています。それはまるで手ですくった水が、指の間からこぼれ続けてしまうように、僕の頭から大事なことが忘れられていくようです。

津波によって引き起こされた原発の現状はもう受け入れるしか仕方がない。けれども、それを取り巻く人間のシステムが大きな問題になっていますよね。そして、僕たち民意はそのシステムを受け入れるつもりはない、ということで現状一致している。
ここで今、僕たちは1995年におきた阪神大震災とオウム事件以来16年振りに、国全体で一つの共通した問題を抱えています。今回の原発に関しては、あまりに問題が専門的すぎるので、当初は知識のある人が一部の専門家に限られていた。だからみんなテレビなどでさんざん原発について勉強しました。その点で政府も一般人も大差がなかったかも知れない。そして、反原発といった民意が形成され、その結果として浜岡原発の停止といったことにつながった。
僕はこれはとても良いことだと思いました。つまり、日本人が16年振りに、一つの共通の課題に向かうことになり、そして「NO」と言った。高円寺のデモがあったり、一般の人がすごく積極的に(経済以外のことに)参加し、関わったわけです。

「自分が目の前の現実にどう関わるか」という問題意識は生きていく上で非常に大事なことだと思います。その上で、今回の地震後に起きている僕らの課題というのは、具体的には被災地の人々の生活、あるいは放射線による被害などから、今後、社会はどこへ向かって進めば良いのかという、僕たちの目指す抽象的な価値観にいたるまでありますが、ではそれに対して「自分は何ができるのか、あるいは何かをしたい」。それは多くの人が感じているだろうと思います。ある人はボランティアに行き、ある人は政治的な政策を考える。

一方で冒頭で言ったように、今回の原発問題では、日本人の99%が素人の知識レベルから議論を始めました。つまり議論における民意と政治の立ち位置がとても近かった。だから、浜岡原発停止のように民意が政治を動かすことが比較的簡単にできた。そして今もシステムの弱点は、2ヶ月半前から全く同じように目の前に露呈し続けている。
それに対して、僕たちが原発問題を他人の手にゆだね、日常へと戻ることで何もしないという選択ももちろんありますが、今回の3.11が社会にもたらしたことに対して自分が向き合った結果は、これまでの16年とは違うはずです。だから、ここで簡単に日常に戻っていくのはあまりにもったいない。

今、3.11は社会に被害をもたらしただけでなく、僕たちの意識を変えています。被災者にたいしてどんな支援ができるか、また放射線という恐怖、それを管理していたはずの東電と政府に対してどう関わるかという意識を通して、僕たちは何か大きな価値に向かっている。つまり、ひとつの転換期を迎えています。そして、この意識が次の世代を作るわけです。それが具体的にどう変化していくのか僕にははっきり分からないけれど、それに積極的に関わろうとすることが、とても大事なことのように思っています。

 

3.11直後の5日間                       5月30日


3/11(金)

1度目の揺れが始まった時、僕はちょうど自宅でパソコンをしていた。危ない、と思ったすぐ、机の下に隠れたんだけど、そのうちに家自体が崩れるかもしれないから、この1階にいるよりも2階に上がった方が安全なんじゃないかと思い始めた。けれど、そうしようと思っても、揺れている間はそこから動けなかった。
2度目の大きな揺れが始まると、今度はすぐに2階へ上がった。そうしたら、そもそもそこには隠れるべき机がないことに気が付いた。僕はとりあえず目の前のベッドに入り、布団を頭までかぶることにした。いや、気がつけばそうしていたという言い方が近いかも知れない。そして布団をかぶってみると、そういえば阪神大震災の時にも今と全く同じ姿勢でやり過ごしていたことを思い出した。
地震がおさまると、僕は家の中にいることが危険だと考えて、外に出ることにした。そこで近所のオフィスビルからヘルメットをかぶったたくさんの人が同じように避難しているのに出会った。僕はその人たちの中に紛れ込むことで、何とか気持ちを落ち着かせようとした。他の人と状況を共有することで、自分にのしかかっている重さを和らげることができる気がしていた。

1時間ほど経ってから家に戻って、TwitterとNHKで情報収集を始めた。パソコンの中では津波が街を襲っていた。そして、夜になると気仙沼の街が燃えていた。そうした映像は僕にとって、物理的なこの現実世界が終わる予兆であったし、同時に僕の日常の終わる予兆でもあった。そして、これから僕らが新しく直面せざるを得ない「何か」の予兆としてスクリーンに表れていた。


3/12(土)

昼頃、友人のフランス人から電話が来た。「これからすぐに、フランスのテレビ局の取材で被災地に行くんだけど、コンダクターとして来てくれないか?」と言われ、僕はすぐにOKの返事をした。

僕は14歳で阪神大震災を経験したんだけれど、その時のことを実はあまり憶えていない。憶えているとすれば、地震の起きた朝のこと、ガスや電気、水道が通らずに2週間ほど家に閉じこもって暮らしていたことくらいで、実際のところ、他にはほとんど何もしていなかったと思う。家の外に出ることが危険だと感じていたし、壊れた街を見ることに抵抗を感じてもいた。だから、僕は阪神大震災という大きな事件を経験したけれど、それについての情報は今にいたるまでほとんど持っていない、というのがおそらく正しい。またそれは、今回の地震が示すように、被災者の生活とはそういうものなのかもしれない。
だから、僕にとって今回の地震というのは、自分が14歳に経験したはずだけれど、同時に何も知らないという、自分の中のブラックボックスに手を入れることのできるチャンスだった。実際に被災地に行くことで、自分でも知らない何かが反応するかもしれない。つまり、そこに行くことで経験できるであろうことが僕を強く惹きつけた。そして、同時に今の現実の世界で起こっていることと、ただパソコンのモニタを見ているだけという、僕の目の前の現実のギャップを少しでも埋められることが、僕には一つの救いのような気がした。
そうしたものすごく個人的な理由を叶えてくれる仕事がやってきた。

僕は車を手配し、友人とともにテレビの取材班を迎えにいった。


3/13(日)

高速道路はすべて緊急車両用に閉鎖されていたので、ずっと一般道を北上する。そして12日のうちに、宇都宮まで行っていた。朝にそのまま福島に向かう。最初に福島市内に入った時、ひとつのスーパーの前に長い列を作っている人たちを見かけたので、そこへインタビューに向かった。僕は取材班の中で唯一の日本人だったので(僕の友人であるフランス人が通訳だった)、何か問題が起きた時には僕が働いた方が良い。なので取材には付き合うことにした。

ある種の作為の排除を目的としたテレビのインタビューや写真撮影といった行為が、暴力的な要素を含まざるを得ないのはワイドショーなんかを見ていれば簡単に分かるように、たとえそれが震災の取材であっても同じことだった。彼らがスーパーに長い列を作って待っているのは灯油をもらうためであって、僕らのインタビューを受けるのを待っているのでは当然ない。だから、そんな時にカメラをいきなり向けられて、インタビューを嫌がる人はもちろんいた。
僕は福島市内に入った時から、その異様な静けさに緊張していた。ガソリンスタンドに車が並び、商店は閉まっている。外を歩いている人もほとんどいない。街に音がなかった。
僕らは外国メディアの中で1番最初に震災地に入ったグループのようだった。そこでの僕らは、まるで穏やかな朝の湖面に投げられた1つの石のように、音をたて、波紋を起こすような存在だったと思う。だから、僕は必要以上に丁寧に接するように努力した。それでも、やはりすべてがうまくいったとは言えないけれど、その後も市内の災害対策本部、避難所の学校をまわるうちに、ある種の活気と秩序があるところでは、やはり僕らももう少し落ち着いて仕事ができたと思う。


3/14(月)

朝、まずは全員で放射能検査を受けよう、ということになった。ちょうど宿泊していた会津若松で検査が始まると聞き、そこへ向かった。そして、そこで列に並んで待っている時に、原発が爆発したニュースを知った。その爆発が水素爆発だと聞いたかどうか憶えていないけれど、その爆発がどのような被害をもたらすかというのは、その時点では誰も分からないようなことだった。だから僕たちは放射能検査をとりあえず受けて、そのまま福島から離れることした。
会津若松から、そのまま北上して仙台方面に向かうことにしたんだけれど、福島から直接仙台に入る道が封鎖されていたし、ガソリンを手に入れなければいけない理由で、新潟経由で向かった。けれどその途中でやはり原発からはできるだけ離れていた方がいいとの判断で、そこからさらに北上し、岩手の陸前高田市に進路を変更することになった。


3/15(火)

朝、僕たちは陸前高田のホテルを出てそのまま津波の被災地へ向かった。そして、そこで見た光景を僕はただ、まるで原爆後の広島のようだと感じた。文字通りの「壊れた街」。僕の見た限りでは唯一、ローソンが一軒だけその形を留めていた。基本的に街全体が木造の家屋でできていたようで、だから僕の見たローソンのように鉄骨でできた建物は、津波に流されたとしても、その形を残すことができていたんじゃないだろうか。

避難所で夕方まで取材撮影をしていた。僕はその間に街を散歩するか、もしくは避難所で取材班と一緒に話を聞くかを迷った。僕にとっては、これはすごく大きな問題で、写真家として見たことのない光景を見ることができるというのは本当に職業病的に魅了される。けれど、同時にこの震災を経験した人の話を聞くことも、僕自身が一人の人間としてものすごく興味があった。結果的に僕は後者を選んだわけだけれど、その中で僕が1番印象深かった話は、この地域の人たちは、日頃から津波による避難訓練を十分におこなっていた。今回も、みんなは避難訓練通りに動いた。けれど、予想以上に大きな津波はその避難所すら飲み込んでしまった、という話だった。

夕方に雨が降って来た。それは僕たちが一番恐れていたことだった。雨が降ったら、放射線が一緒に降ってくる。僕は避難所でNHKを見た。雨の降り始めた中、政府の会見は20分ほどで終わったんだけど、そこで、官房長官は20分も話し続けた結果、何も言っていなかった。それは何の情報もない20分の会見だった。僕は本当に唖然としてしまった。何も言っていないのは、言うことがないからでは当然なく、言えないからで、正直、日本政府がそんなものだということにがっかりした。地震が起きて5日目、被災者が今身を守るために何をすれば良いのか、政府もテレビ局も何も教えてくれなかった。そして、その横で原発は爆発していた。
そしてフランス大使館からの避難命令が出て、僕らの短い取材は終わった。

僕は「情報がなければ判断ができない」ということを、生まれて初めてそこで知った。今どうなっているのか分からない、ではどうすれば良いのかも分からない。分からないから、「身の安全のことを考えるなら」逃げるしかない。
ただ僕らは同時に、フランス大使館と連絡を取っていたので、そこからの情報に頼れたことが本当に救いだったと思う。僕は避難所の人たちに、とにかく「雨にはあたるな、濡れた服も室内に持ち込むな」と、日本政府ではなく、フランスが教えてくれたことを伝えて、避難所を出た。もちろん今になってみれば、そこまで心配しなくても良かったことだけど、それはただ「結果的に」そうであっただけで、つまり「何も正しい情報がなかった」状況では、比較的安全を確保できる方法を自分たちで決めるしかない。あとで手遅れになるよりも、初めに用心しすぎた方がもちろん良い。


僕が持っていた被災地へ行くことへの願望は、おそらくこのような天災に対して、14歳の時には消化しきれなかった体験を、改めて直視して受け入れることのようにあったんじゃないかと思う。今の時点ですら、いささか直視しきれているとは言えないけれど。

 

意識の0.5秒理論と写真を撮る行為、ジョギング           4月4日


ベンジャミン・リベットの『マインド・タイム』(2005、岩波書店)という本があります。僕たち人間の意識についての研究をしたもので、発刊当時の日本での脳科学ブームも手伝って、読んだ人も多いのではないかと思います。
この本の中でリベットは、「人間がある物事に気付く(意識に上がる)という行為において、脳内では一体どのような活動が行われているのか」ということを科学的に調べました。その結果を簡単に説明すると、僕たちがある事柄に気付くには、脳内で0.5秒間の刺激の持続が必要だということです。つまり0.3秒では僕たちは気付かない。ですが、人間の意識下には無意識があるので、0.3秒間の刺激では意識では気付いてないけれど、無意識下では判別していることを証明したのでした。
これについて良く使われる例えとして、プロ野球のバッターの話があります。時速150kmでピッチャーから投げられたボールはキャッチャーミットに届くまで0.5秒もかかりません。ですから、バッターはボールを見て、意識で捉えてから「よし、振ろう!」と決めて、スイングを始めるのでは絶対に打てないのです。つまり、彼らは体を動かす(スイングをする)命令を無意識の領域で行うことによって、そのタイムラグを縮めているわけですね。この作業をいかにして鍛えるか、というのが彼らプロにとってはものすごく重要なわけですね。

「無意識をいかに使うか」というのは、芸術においては「シュールレアリスム」が1920年代に始めました。この運動の元にはフロイトの無意識研究が大きく影響を及ぼしていて、意識の解放を行うことによって、これまでの能力の限界を超えるという姿勢のもとで、例えば自分の夢の内容を絵にしたり(サルバドール・ダリ)、何も思考することなく文章を書いたり(自動筆記)、アイロンと傘といった本来の目的からずれた組み合わせ(dépaysement=デペイズマン)をすることによって新しい可能性を探求するといったことが、様々な分野において試されました。
それが現代においても重要な意味を持ち続けていることは、上記を見ればわかるように言うまでもありませんね。そして、こうしたことが写真の撮影行為についてもまったく同じように当てはまる。

写真を撮るという行為は、まず物を見ることから始まります。「物の視覚的刺激が目に入る→視覚信号の選別の結果、脳が反応する→写真を撮ると決める」という反応を一般的にたどるわけですが、脳内で反応が起こっても、それが0.5秒間続かない限り写真を撮りたい、あるいは撮ろうと「決める」意識が起こらないことになります。しかも、現実的には歩いていたりするわけですから、目に映る景色、つまり視覚信号が常に同じにはなりません。ですから、いちいち立ち止まったりしない限り、脳内において0.5秒間も同じ刺激が続くというのは、実際の運動の中ではなかなか起こらないわけです。
そこで重要なのが、さっきの話のように、写真を撮ろうと決める前の段階、つまり無意識に対してものすごく敏感になることによって、バッター選手がスイングをしようと決める前にスイングをするように、「写真を撮ると決める前に、写真を撮る」ことです。そうすることで、意識には上がってこない感覚をすくうことができる。それは例えば夜の海で、中に何があるのかも真っ暗でよく見えないけれど、とりあえず釣り糸を垂らしてみようというようなことです。そこで釣れるのはよく知っている小さなエビかも知れないし、あるいは見たこともない珍しい魚かも知れません。僕たちには何が釣れるか「全く分からない」。つまり、そこは可能性の海なんです。
そして、こうして撮られた写真の「どれか」は、きっと価値のある「ヒット=良い写真」であるはずで、その確率を上げるのが写真家としての職業訓練でしょう。

僕は最近、毎日ジョギングをしているんですが、走っている間にわざと何も考えない時間を作ります。目の前の景色が、歩いている時よりも早く流れて行きますが、その間に僕自身の目ががまるでスキャナーになったように、風景を均質的にスキャンするんです。そして、無意識がそれを判別していくのを、僕はただ見守る。ただその行為を繰り返すだけですが、これは写真家としてのとても良い訓練だと思っています。

  セックスと嘘とビデオテープ                   3月4日

なんだか、Twitterを年始に始めたおかげで、ブログを書きたいと思う機会がすっかり減ってしまいました。どうやらTwitterでは書ききれないことが、僕の日常ではそんなに起こらないようです。笑 そうですよね、毎日、圧倒的な情報量が竜巻のように渦を巻いて、僕たちを取り囲んでいる毎日なので、その中から、キラッ!と光るものに気がつくのは、そう簡単なことではないですよね、という言い訳です。笑

そんな中、昨日『セックスと嘘とビデオテープ』を観ました。1989年のスティーブン・ソダーバーグによるアメリカ映画です。おそらく10年くらい前に1度観ているはずなんですが、内容が全然記憶に残っていなかったのに、「気になる映画だ」ということだけを憶えていました。
僕は中学、高校時代に夏休みとかになると、1日に2、3本の映画を見る毎日だったのですが、これはその中でずっと気になりつつも、なぜか観ないでいた映画でした(そういう経験てありますよね?)。それが、20歳くらいになってようやく観たんですけど、結果的にそれが僕の中でずっと、その内容よりも、「いつも」気になる映画、というふうに記憶に残ってしまった。
すごく印象的なタイトルですしね。きっと、高校生の僕は、これは完全にセクシー系映画だと思っていたはずです。

そういうわけで、また観たんだけれど、10年前の僕(20歳)では気付けなかったことが見えてきて、面白かったんです。26歳でソダーバーグはこれを作ったのかと思うと、正直驚きます。
話を憶えていない人も多いかと思うけれど、登場人物は主に4人います。とある夫婦のジョンとアン。ジョンは敏腕弁護士として働き、金銭的にも二人は不自由のない暮らしをしているんだけど、アンは軽いパラノイア(偏執病)を抱えていて、ジョンはアンの妹で自由奔放な、シンシアと浮気をしている。つまり、「異常な」問題を抱えている家庭なわけです。そこにジョンの大学時代の友人であるグレアムが街に戻ってきて、住む部屋を探すための数日間、泊まりにきた。そして、グレアムが新しい部屋に住み始めて、アンがそこに遊びに行ってみると、色んな女性が自らのセックスについて語っているビデオテープの山を見つける。

というのが、話の導入部なのですが、グレアムはそのビデオテープを個人的な性的解消に使う、いわば、物静かな後天的性的不能者(インポテンス)として、性的に乱れた異常な家庭に入ってきた、完全なる異物なんですよね。言いかえると、映画の冒頭で描かれた、開かれたカオス的日常に侵入してきた、閉ざされたカオス的非日常の世界なわけです(グレアムは常に家の中にいる)。
ただし、パラノイアを持ったアンは、同じような精神的問題を抱えたグレアムに個人的なつながりを感じるんだけれど、グレアムのビデオテープを見つけたことによって、個人的ではない、日常的な倫理、あるいは道徳によって拒絶をしてしまう。そこで、倫理や道徳から自由なシンシアは彼に興味を持ち、彼の非日常的世界へと入っていく。そして、自らのセックス体験についてビデオに語り、さらにはオナニーまでするという、一種のタブー(非日常)を犯すことができた。ここが物語のターニング・ポイントだと思うんですが、その非日常空間で彼女は、自らの抑圧を解放してカタルシス(救済)を得ることで、それまで日常生活において、ジョンとの浮気が果たしていたタブーを犯すことによるカタルシスから脱出できたわけです。

けれど、一方でそれはジョンからすると迷惑以外の何ものでもない。彼は仕事もできるし、自分がモテることによって、自らが支配する日常生活の頂点にいる。彼はその頂点の立場から自分の世界の秩序を維持していたつもりだったんですが、その役割がグレアムのビデオテープの出現によって相対化されてしまい、意味を失ってしまった。そして、追い討ちをかけるようにして、シンシアとの浮気がアンに決定的にバレてしまう。
そこで、ジョンの作っていた秩序世界に違和感(パラノイア)を感じていたアンは、浮気の証拠物を見つけて、当然そこからの避難を計って、グレアムのビデオテープという、もう一つの装置に逃げ込む。
そして、アンも同じようにカタルシスを得るわけですが、彼女はビデオテープによって救済されるだけではなく、インポテンス(弱者)としてのグレアム自身に以前から共感していたので、ビデオテープという装置を介することなく、2人は最終的に結ばれる。

というように、「セックス(=救済に見せかけた、実は中身のない結婚)と嘘(=それを暴く鍵である浮気)とビデオテープ(=日常からの逃避としての、もう一つの救済装置)」という、この映画の構造がとても面白かったのでした。

 

実家の風景について                       1月8日


年末の大晦日から4日間、実家に戻っていました。僕は18歳の時に横浜の大学へ入るために家を出て一人暮らしを始めたので、もうそれから11年経っているわけです。そして大体年に1度は実家に戻るようにしているんですが、数年前から何だか奇妙な感覚に捉われるようになりました。実家の近所を歩いていると、今目の前にある僕にとって昔ながらの風景が、実は偽物なんじゃないか、という感覚になるんです。それは、僕が小学校の時に見ていたものを、誰かが描き起こした書き割りだと考えた方が実感として納得がいくんです。

僕は高校を卒業するまでその町に住んでいたにもかかわらず、今そこを歩くと、色んなもののサイズが小さく感じられ、また視界に遠近感がなくなっています。それはアメリカのニューカラー時代の写真のような、フラットな町で(実体はものすごく普通の住宅街だけど)、同時に僕のために組まれたセットのような閉ざされた空間なんです。そこで僕は体を動かすことによって現実感を取り戻そうと歩き続けるんですが、昔知っていた道や公園なんかを記憶に従って辿ってみても、「ああ、確かにこんな感じだったな」と思うんだけど、その存在がすでに先にあったのか、あるいは逆に僕の記憶が先なのか、感覚的によく分からない。だから、それは目の前の世界が僕の記憶に従って作られたフィクションだということを全く否定してくれない。また家のすぐそばなのに、全く知らない路地や、入ったことのない地区があることに驚きもするんですが、それさえもが目の前の自己生成するフィクションであるかのように見える。そして、そうした感覚は家の中で家族と話す時にも、同じように僕を捉え続けるんですね。

先月から、伊豆半島を旅行し、屋久島に行き、仕事で広島に行ったりと、日常からの離脱を繰り返しているんですが、実家へ戻る時だけは単純な日常からの離脱とは言い難く、その行き着く場所では時間軸までもが狂っているので、自分の立ち位置自体がものすごく不安定になっている。そうした感覚が僕には少し恐いと同時に、この違和感のまま写真を撮ったら面白いのかな、と考えたりするんですが、この違和感は誰とも共有できないので難しいですね。笑


追伸
遅ればせながら、Twitterを始めました。よろしくお願いいたします。

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