3.11直後の5日間 5月30日
3/11(金)
1度目の揺れが始まった時、僕はちょうど自宅でパソコンをしていた。危ない、と思ったすぐ、机の下に隠れたんだけど、そのうちに家自体が崩れるかもしれないから、この1階にいるよりも2階に上がった方が安全なんじゃないかと思い始めた。けれど、そうしようと思っても、揺れている間はそこから動けなかった。
2度目の大きな揺れが始まると、今度はすぐに2階へ上がった。そうしたら、そもそもそこには隠れるべき机がないことに気が付いた。僕はとりあえず目の前のベッドに入り、布団を頭までかぶることにした。いや、気がつけばそうしていたという言い方が近いかも知れない。そして布団をかぶってみると、そういえば阪神大震災の時にも今と全く同じ姿勢でやり過ごしていたことを思い出した。
地震がおさまると、僕は家の中にいることが危険だと考えて、外に出ることにした。そこで近所のオフィスビルからヘルメットをかぶったたくさんの人が同じように避難しているのに出会った。僕はその人たちの中に紛れ込むことで、何とか気持ちを落ち着かせようとした。他の人と状況を共有することで、自分にのしかかっている重さを和らげることができる気がしていた。
1時間ほど経ってから家に戻って、TwitterとNHKで情報収集を始めた。パソコンの中では津波が街を襲っていた。そして、夜になると気仙沼の街が燃えていた。そうした映像は僕にとって、物理的なこの現実世界が終わる予兆であったし、同時に僕の日常の終わる予兆でもあった。そして、これから僕らが新しく直面せざるを得ない「何か」の予兆としてスクリーンに表れていた。
3/12(土)
昼頃、友人のフランス人から電話が来た。「これからすぐに、フランスのテレビ局の取材で被災地に行くんだけど、コンダクターとして来てくれないか?」と言われ、僕はすぐにOKの返事をした。
僕は14歳で阪神大震災を経験したんだけれど、その時のことを実はあまり憶えていない。憶えているとすれば、地震の起きた朝のこと、ガスや電気、水道が通らずに2週間ほど家に閉じこもって暮らしていたことくらいで、実際のところ、他にはほとんど何もしていなかったと思う。家の外に出ることが危険だと感じていたし、壊れた街を見ることに抵抗を感じてもいた。だから、僕は阪神大震災という大きな事件を経験したけれど、それについての情報は今にいたるまでほとんど持っていない、というのがおそらく正しい。またそれは、今回の地震が示すように、被災者の生活とはそういうものなのかもしれない。
だから、僕にとって今回の地震というのは、自分が14歳に経験したはずだけれど、同時に何も知らないという、自分の中のブラックボックスに手を入れることのできるチャンスだった。実際に被災地に行くことで、自分でも知らない何かが反応するかもしれない。つまり、そこに行くことで経験できるであろうことが僕を強く惹きつけた。そして、同時に今の現実の世界で起こっていることと、ただパソコンのモニタを見ているだけという、僕の目の前の現実のギャップを少しでも埋められることが、僕には一つの救いのような気がした。
そうしたものすごく個人的な理由を叶えてくれる仕事がやってきた。
僕は車を手配し、友人とともにテレビの取材班を迎えにいった。
3/13(日)
高速道路はすべて緊急車両用に閉鎖されていたので、ずっと一般道を北上する。そして12日のうちに、宇都宮まで行っていた。朝にそのまま福島に向かう。最初に福島市内に入った時、ひとつのスーパーの前に長い列を作っている人たちを見かけたので、そこへインタビューに向かった。僕は取材班の中で唯一の日本人だったので(僕の友人であるフランス人が通訳だった)、何か問題が起きた時には僕が働いた方が良い。なので取材には付き合うことにした。
ある種の作為の排除を目的としたテレビのインタビューや写真撮影といった行為が、暴力的な要素を含まざるを得ないのはワイドショーなんかを見ていれば簡単に分かるように、たとえそれが震災の取材であっても同じことだった。彼らがスーパーに長い列を作って待っているのは灯油をもらうためであって、僕らのインタビューを受けるのを待っているのでは当然ない。だから、そんな時にカメラをいきなり向けられて、インタビューを嫌がる人はもちろんいた。
僕は福島市内に入った時から、その異様な静けさに緊張していた。ガソリンスタンドに車が並び、商店は閉まっている。外を歩いている人もほとんどいない。街に音がなかった。
僕らは外国メディアの中で1番最初に震災地に入ったグループのようだった。そこでの僕らは、まるで穏やかな朝の湖面に投げられた1つの石のように、音をたて、波紋を起こすような存在だったと思う。だから、僕は必要以上に丁寧に接するように努力した。それでも、やはりすべてがうまくいったとは言えないけれど、その後も市内の災害対策本部、避難所の学校をまわるうちに、ある種の活気と秩序があるところでは、やはり僕らももう少し落ち着いて仕事ができたと思う。
3/14(月)
朝、まずは全員で放射能検査を受けよう、ということになった。ちょうど宿泊していた会津若松で検査が始まると聞き、そこへ向かった。そして、そこで列に並んで待っている時に、原発が爆発したニュースを知った。その爆発が水素爆発だと聞いたかどうか憶えていないけれど、その爆発がどのような被害をもたらすかというのは、その時点では誰も分からないようなことだった。だから僕たちは放射能検査をとりあえず受けて、そのまま福島から離れることした。
会津若松から、そのまま北上して仙台方面に向かうことにしたんだけれど、福島から直接仙台に入る道が封鎖されていたし、ガソリンを手に入れなければいけない理由で、新潟経由で向かった。けれどその途中でやはり原発からはできるだけ離れていた方がいいとの判断で、そこからさらに北上し、岩手の陸前高田市に進路を変更することになった。
3/15(火)
朝、僕たちは陸前高田のホテルを出てそのまま津波の被災地へ向かった。そして、そこで見た光景を僕はただ、まるで原爆後の広島のようだと感じた。文字通りの「壊れた街」。僕の見た限りでは唯一、ローソンが一軒だけその形を留めていた。基本的に街全体が木造の家屋でできていたようで、だから僕の見たローソンのように鉄骨でできた建物は、津波に流されたとしても、その形を残すことができていたんじゃないだろうか。
避難所で夕方まで取材撮影をしていた。僕はその間に街を散歩するか、もしくは避難所で取材班と一緒に話を聞くかを迷った。僕にとっては、これはすごく大きな問題で、写真家として見たことのない光景を見ることができるというのは本当に職業病的に魅了される。けれど、同時にこの震災を経験した人の話を聞くことも、僕自身が一人の人間としてものすごく興味があった。結果的に僕は後者を選んだわけだけれど、その中で僕が1番印象深かった話は、この地域の人たちは、日頃から津波による避難訓練を十分におこなっていた。今回も、みんなは避難訓練通りに動いた。けれど、予想以上に大きな津波はその避難所すら飲み込んでしまった、という話だった。
夕方に雨が降って来た。それは僕たちが一番恐れていたことだった。雨が降ったら、放射線が一緒に降ってくる。僕は避難所でNHKを見た。雨の降り始めた中、政府の会見は20分ほどで終わったんだけど、そこで、官房長官は20分も話し続けた結果、何も言っていなかった。それは何の情報もない20分の会見だった。僕は本当に唖然としてしまった。何も言っていないのは、言うことがないからでは当然なく、言えないからで、正直、日本政府がそんなものだということにがっかりした。地震が起きて5日目、被災者が今身を守るために何をすれば良いのか、政府もテレビ局も何も教えてくれなかった。そして、その横で原発は爆発していた。
そしてフランス大使館からの避難命令が出て、僕らの短い取材は終わった。
僕は「情報がなければ判断ができない」ということを、生まれて初めてそこで知った。今どうなっているのか分からない、ではどうすれば良いのかも分からない。分からないから、「身の安全のことを考えるなら」逃げるしかない。
ただ僕らは同時に、フランス大使館と連絡を取っていたので、そこからの情報に頼れたことが本当に救いだったと思う。僕は避難所の人たちに、とにかく「雨にはあたるな、濡れた服も室内に持ち込むな」と、日本政府ではなく、フランスが教えてくれたことを伝えて、避難所を出た。もちろん今になってみれば、そこまで心配しなくても良かったことだけど、それはただ「結果的に」そうであっただけで、つまり「何も正しい情報がなかった」状況では、比較的安全を確保できる方法を自分たちで決めるしかない。あとで手遅れになるよりも、初めに用心しすぎた方がもちろん良い。
僕が持っていた被災地へ行くことへの願望は、おそらくこのような天災に対して、14歳の時には消化しきれなかった体験を、改めて直視して受け入れることのようにあったんじゃないかと思う。今の時点ですら、いささか直視しきれているとは言えないけれど。
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