震災後のアート                        3月20日


すっかり花粉症の季節になりましたね。僕も中学生の時からひどい花粉症を持っています。
市販の鼻炎薬を飲んでみると、鼻水の代わりに今度は鼻が痛いくらいに乾いてしまうし、ひどい眠気と虚脱感で、むしろ薬を飲まない方がいいんじゃないかという気にもさせられますよね。
そこで、僕は数年前から市販の鼻炎薬ではなく、医者で処方してもらえる、副作用のない弱めの抗アレルギー薬と鼻炎用の漢方を併用することで、虚脱感や眠気に悩むことなく花粉症をかなり緩和することができました。日常生活を送る分には特に困らない程度にまで改善されるので、僕は周りのひどい花粉症持ちの友人にも勧めているのですが、みんな一向に取り入れてくれる気配がありません。それで相変わらず苦しんでいるので、僕には全く理解ができないんですが、どういうことなんでしょう!皆さん、ぜひお試し下さい。

さて本題に入りたいんですが、震災から1年が過ぎ、それをきっかけとするように、写真業界でも震災に関する写真展がよく開かれるようになっています。もちろん写真だけでなく、社会全体が震災に対する取り組みをこの1年ずっとやってきて、今後も続いていくでしょう。それは、人体に入ってきた異物によって起きた何らかの症状を、人はその免疫機能で治すように、日本という一つの社会が震災という被害を社会の免疫機能を持って、つまり僕たちのそれぞれの活動やコミュニケーションを通して受け入れようとする作業なんだと思います。

昔であれば、そうした予測もできず、後付けの解釈もできない天災のような出来事は、宗教によって解釈を与えられて、僕たちはそれを受け入れてこれたわけですが、宗教の役割が弱くなった現在の僕たちの社会では、それに取って代わったはずの科学の信頼性も原発事故をきっかけに疑われてしまい、じゃあその穴埋めを何が担っていくんでしょうか。

震災以前の僕にとって、アートというのは一言でいえば、僕たちを日常の外側へと連れて行ってくれるものでした。日常を生きる僕たちは、ひとつの作品を観る間、その作品世界を経験し、その経験から得たものをたずさえて再び日常に戻っていくわけですよね。ですから、作品の世界というのは僕たちの日常を超えた場所に含まれていると考えていたわけです。そして今回、震災という出来事も同じような日常の向こう側からやって来た。アートは日常を超えた世界を表現するからこそ安心してできていたゲームのはずだったのに、震災によってこちら側とあちら側が混じってしまったことで、そのゲームの成立自体が危うくなってしまったように感じざるをえない。誤解を恐れずに言えば、僕が今回の被災地を訪れた経験は、これまで観たどんなアート作品をもはるかに圧倒していたんです。
作品が日常を超えた場所を目指すことによる魅力は今後も持続するのか。圧倒的な震災に対して、作品は立ち向かっていけるのか。

というような不安の混じった疑問を抱えつつも、ただ、今の時点の実感としては、多くの人がこの1年のように震災について作品を作り、今後も作っていくであろう、その総体的な量によって、震災自体を何物かの絶対的な象徴として扱うような姿勢から切り離すことが、僕たち個人、または社会の免疫を果たすことにつながるんじゃないかと思って、だから僕自身も作品を作り続けなければいけないし、その実践を通して答えを見つけようとしなければならない(たとえ見つからなくても……)と感じています。