『2011』 2011-2012

1995年の阪神大震災を僕は14歳の時に経験したにもかかわらず、その時のことをあまり覚えていない。覚えているとすれば、地震の起きた朝のことや、ガスや水道が止まり暮らした2週間のこと。余震が怖いだけでなく、壊れた街を見ること自体が危険を想起させて、家の外に出ることもほとんどなかった。
地震の数日後に電気が通り、テレビに映った神戸の街を見た時に初めて被害の大きさを知って驚いたけれど、僕はその驚きを抑えて冷静に目の前の現実を判断できるような年齢でもなかった。
そうした混乱ゆえに、僕はその当時の情報や記憶はずっと曖昧なままである。もしかして、被災者の生活というのはそういうものなのかもしれないけれど、その過ぎ去った時間と経験はその曖昧さゆえに、僕が成長しても、心の中でブラックボックスとして残り続けた。

2011年に東日本大震災が起きた時、その災害の質は違えど、僕はそこに関わることによって、ブラックボックスに光を当てることができるのではないかと感じた。

カオスはある周期をもって、僕たちの社会に流れ込んでくる。膨らみすぎた風船に空いた針穴から漏れ出る空気のように。