『GOLDEN SHEEP』 2012-2013

2009年、私はパリからロンドンへ向かう列車に乗っていた。ドーバー海峡を抜け、イギリスの国土が見えてくる。夕方の霧が、幽霊のように海辺をさまよっていた。海にそびえる崖の上には閑散と木々が並んでいる。私は白く霞んだ景色の中に小さな点をいくつか見つけた。「あれは何だ?」と目を凝らすと、羊だった。私は生まれて初めて羊を見た。列車に乗っている一瞬の出来事だったが、霧に包まれた羊のいる光景の美しさに魅了された。

芸術にとって重要な観念である「美」という文字は、「羊」から誕生したという説がある。洋の東西を問わず、古代において羊は日常的な食料や衣服に使われるだけでなく、神への犠牲として捧げられていた。その重要性が「美」という抽象概念に結びついたと想像すると、私がイギリスで見た光景は「美の起源」と言えるのかもしれない。

日本において、羊が定着したのは明治近代以降である。それ以前にも羊の繁殖が試みられたが、寒冷地に住む羊が日本の温暖湿潤な気候に適応できなかった。天平時代の絵画に、正倉院の『羊木臈纈屏風(ひつじきろうけちのびょうぶ)』がある。ペルシアから伝わってきた絵画様式を模したものと考えられているが、私には、羊を見たことのない日本人が、脳内のおぼろげな輪郭を表現したものに見えてしまう。そして、その画像は私の脳内において、イギリスで見た霧に包まれた羊の記憶と重なった。この絵画が制作されて1260年あまり経過している。今後の劣化によってその肉体が消えてしまう前に、それに代わる羊を創造するのが私の役目であると、いつしか思い始めた。